何を書けば

書きたいときに書きたいことだけを書いて、それが面白ければいいと思いつつ、面白いと思えないものがたくさん出来上がって、例えばそれが物語だったらほんとうにこっぱずかしく、誰にも見せずに、自分でも見返さずに私の頭の引き出しに、永久にしまう。

 

ここは、ほとんど誰も見ていない。なんでも好きなことを書き放題だ。だから、面白くないことでもどうでもいいことでも書けるのだ。

しかし、書いているからにはどうしても、読んでほしいというエゴが出てくるのだ。いつもいつも、そうなのだ。誰かに届いてほしくて書くのに、発信力が弱すぎる。面白くない上に、変な奴だと思われたくないから、知り合いなんかにここの存在を伝えることはない。そして何より、面白くない、と言われるのが怖いのだ。面白くないと主観で分かっていても、客観から言われるときっと私は嫌になる。そういう女なのだ。何ともめんどくさい。

 

昨日のことだ。私が何か色々書いていることは知っている知人に、読ませてほしいと言われた。物語が読みたい、と。こういう、どうでもいい日記のようなものを見られるのと、物語を読まれるのでは恥ずかしさの度合いが違う。全裸で街に出るくらい、もしくはそれ以上の恥ずかしさがある。しかし。私は実は、それと同レベルに、読んでほしいとも思う。その意向は伝えられなかったが、せっかく書いているのだから、誰かに読んでほしい。またその気持ちが生まれた。

 

どれなら見せられるだろう、と、久しぶりに読み返した。

私の書くものは大体数千字、もしくは数百字なのであっという間に振り返ることができた。すると、引き出しの奥にしまいすぎて書いたことすら忘れてしまっているものもあった。これ、いつ書いたんだ?と。少し楽しくなってしまった。

 

結局、物語はどれも見せなかった。

人様に見せられるようなものはどこにもなく、くだらないくさい小説ごっこしか見当たらなかった。

いつか、何百人、何千人に見てもらいたいと思えるような上手い文章は書けるのだろうか。

何百人、何千人が見たいと思うような上手い文章が書けるのだろうか。

 

 

誰か1人でいいから、私の文章で心を動かしたい

 

という、中学生のときに何気なくどこかに書いた想いは、叶う日が来るのだろうか。

今日の意識

三日坊主は止めようと3日以上書いたのだが、結局5日で終わっていた。いつもこうだ。いつか、友人が言っていた。

私のやる気があるときとないときの差は激しく、まるでジェットコースターだ、

と。私もきっと同じだ。高揚しているのはほんの一瞬、だがその代わりに落ち込んでいるのもほんの一瞬。だったらいい。私はかなりの割合で、ずっとずっと、ゆっくりと登っている状態にいる。

 

 

さて、

なんの脈絡もない話をしよう。

 

私は将来的に、子どもが欲しいと考えている。結婚をして、子どもを産んで、という普通の幸せを手に入れたいと考えるタイプの人間だ。

だが、子どもが好きか、と問われると実はそうでもない。2歳半くらいの赤ちゃんを見て

ああ、可愛いなぁ

とは思う。小さな足や手を見て悶え死にそうになることもある。

が、普通にどの年代の子どもでも可愛いとまでは思えない。憎たらしいと思ってしまう時もあれば、汚い言葉ではあるが普通にイラつく時もある。

 

もしも自分の子供だったら、どの年齢でもどの瞬間でも、愛せるのだろうか。

 

 

私の母は、私が幼いときに、私の鼻くそなら食べられると言った。

もしも自分の子どもだったら、本当にそんなことができてしまうのだろうか。いまの私が想像してみても、絶対に無理だと思ってしまう。だって鼻くそなんて、ただの汚れだ。鼻をかませてあげたり鼻くそを取ってあげたり、それはできる。だが食べるとなるとできるできないのハードルが急激に上がる。そんなもんではないのだろうか。 将来子どもが欲しいと考えている皆はできると、答えられるのだろうか。分からない。誰にも聞いたことがない。

 

いつか、なん年後か、分からないが自分の子どもを持てたとき、思い出して試してみたい。

 

あの茶色い

昔からあるアイスって、ほんのりと木の棒の味がする。

なんなら途中から木の味がアイスに勝つことがある。

アイスバーを想像して書いているが、カップアイスについてくる木のスプーンも然り。

 

きっと、ああー分かる分かる

となっていただけると思うのだが、いま思い出そうとするとその木の味がどんなだったかを思い出せない。

 

だけど食べてみて木の味がしたとき、

懐かしい

と心のどこかで思うのだ。

 

私はあの味が好きではない。アイスを食べたくて食べていたのになぜ途中から植物風味でお届けされないといけないのだろうか、と思う。しかし思えば思うほど木の味に味覚が集中してしまう。

 

しかしその懐かしさで、なぜか不快感までは感じない。それはずっと小さな頃から、不定期に味わってきたものであるからなのか。いわば、私はこの味とともに育ってきたのだ。

 

これから何年後かも、アイスの棒は木なのだろうか。プラスチックや他の何かが主流になるのだろうか。その時私は少し寂しい、などと思うのだろうか。

いいや、きっと木の味も忘れ、むしろ木の味がする、ということも忘れ、何を思うこともなく普通に生活するのだろう。いつもいつも、感じてからやっと気付くものなのだから。無い時にそれについて考えたことはないのだから。

 

途中で歌詞が入ります

 

早いもので

3日書いたところで、3日坊主から脱出したと調子に乗ってしまいまた書かなくなってしまった。

私の悪い癖だ。とにかく何も続かない。

 

実は昔、新体操を習っていた。

実は昔、コンビニでバイトをしていた。

実は昔、前髪を伸ばしていた。

 

誰かに言うほどのことでもないそんな昔話は、続いてない私のせいで無かった過去にされている。

中学のときの部活の顧問の座右の銘が、「継続は力なり」だった。

今なら分かる。続けるということがどれほど難しくてどれほど大切なことなのか。少なくとも15歳の自分よりは身にしみて分かる。

文を書くのが好きだと言い、勝手にこれを始めたのに。好きなことすら続かない私はこの先、就職して長続きするのだろうか。結婚して長続きするのだろうか。

なんてことを考える。

 

きっと今は答えは分からなくて、

実際に起こって生活してみないと分からないのだろう。考えるだけ無駄である。

そんなことを考えているうちに今のことを考えるべきだ。考えるというよりまず行動するべきだ。今、やらないといけないことが多いのだ。

未来のために今があると、言われても私も信じない。節がある。今は今しかないのに。と思う。きっと今3時半だからだ。

 

じっくり、継続していく。つもりでいく。

季節の匂い

春がきたみたいだ。

というのを、匂いで感じられるようになってから私はまだ2年ほどしか経っていない。

 

昔、小学生くらいの頃だろうか。

友人は私に、

「冬の匂いがする!」

と言った。

私には何もわからず、この子は変わってるんだと思った。だが、季節の匂いを感じる人間は案外私の周りに多く、何もわからないながらにも、それが羨ましいと思っていた。

 

高校生のある日に読んだ少女漫画のヒロインが、

「秋と冬の匂いが半分になった!」

と言った。

こんなにも、世間一般的に季節の匂いは存在するのかと、驚いた。

 

 

私が所属していた部活は、中学、高校ともに秋に引退だった。つまり秋は私にとって、先輩との別れであり切ない季節だった。

 

いつかの秋に、

不意に引退の切なさを思い出した。脳ではなく、肌で感じた気がした。

その時に確かに私は、空気の匂いで思い出した。

 

これが、秋の匂いか。

 

私は初めて、何年も前から羨ましく思っていたものに触れ合うことができた。

 

そうして時が経つにつれて

春の匂い

冬の匂いが分かり、

去年初めて、初夏の匂いも感じた。

嘘ではない。

ほんとうに季節に匂いがあるのだということを知った。

 

一つ、感受性が高くなった気がした。

 

嗅覚なんて生まれた瞬間からあるのに

後から得られる嗅覚もあるなんて、不思議だ。

 

 

今日、ついさっき

春の匂いが私の鼻に入り込んできた。

 

そのまま電車に乗り込み窓の外を見ると、桜がちらほら咲き始めていた。

 

どうやら今年も、春がきたみたいだ。

 

 

 

いつかの東京オリンピック

昔に書いた、こんな作文を思い出した。

 

 

 

 

 

 ほぼ確実にありえない、夢の話をします。

 

 私はオリンピックに憧れます。出られるものなら出たいです。種目は陸上競技の400mハードル。夏季オリンピックで行われる競技なので、私が出場することになるのは6年後、東京オリンピックです。その時私は24歳になっています、それまでに私は練習に練習を重ね、夏季オリンピック世界陸上などの大会で強い人を研究し、じわじわと記録を伸ばしていきます。

 

 そして東京オリンピックの選手を選考する大会で私は日本一になります。中学・高校時代に全国大会出場の経験がない私が突然現れ、周りの選手は皆、驚きを隠せません。そんな中で私はオリンピックの代表に選ばれ、他の日本人選手と交流を深めながら選手村に入ります。選手村はとても綺麗で、ボルトや室伏など、トップアスリートがあらゆるところにおり初めは慣れずに困惑します。ですがどんどん慣れていき、私は外国人選手と英語でコミュニケーションをとり、ライバルとしても友人としてもとても良い関係を築きます。

 

 そして試合当日。まずは予選です。周りの様子も見ながらとりあえず流し気味で走り予選を突破します。準決勝では白人選手と黒人選手ばかりですが、そんなことは初めから分かっていたと気持ちを落ち着かせ、全力で走ります。その結果、ギリギリ決勝に残ることができます。陸上競技で日本人選手が決勝に残ることは中々ないため、女子ハードルの歴史が変わったと日本のメディアは大騒ぎです。

 

 そし決勝、私は1レーンを走ることになります。1レーンは比較的苦手ですが、日本の期待を背負い、全力でスタートします。アドレナリンが出て体が少し軽く感じられ、走り終わると、走っていたことが一瞬に感じられます。結果は5位入賞、とりあえず決勝に残るという目標を達成できたので、安心しました。そしてすぐに次の目標、メダルを獲るために練習を始めます。

 

 こんな妄想を膨らませながら私は、平凡な人生を生きています。

 

 

 

 

 

 高校の国語の授業で、自由に書いていいと言われた作文だ。

 

 私はこの時、陸上部に入っていない。400mハードルなんてしたことがない。それで、ここまで書いたのかと、過去の自分に対して笑ってしまった。

 まず初め、「ほぼ」なんて付けているが絶対にあり得ない。この頃の私はごくごく微量の可能性すら捨てられなかったのだろうか。

 

 そして5位入賞という、謎のリアル感。いや、何もリアルじゃないことは分かっているのだが、ここまで妄想を膨らますのであればどうせなら金メダルを獲ったことにしてもいいんだよ、と、妄想内の自分を甘やかしたくなる。

 

”6年後、東京オリンピックです。

  その時私は24歳になっています。”

 

 東京オリンピックは、今から3年後。

 ただただ確実に、時間は進んでいる。

 この3年で私は成長したのだろうか。高校から大学へと通う場所が変わり、10代から20代へと、子供から大人へと、物理的に変化は起きている。

 

 これからの3年で、私はどんな成長ができるのだろうか。

 どれだけの夢を叶えて、いくつの夢を諦めているのだろうか。幼いながらも、もう大人だ。全てを叶えることはできない、ということは分かっているつもりだ。

 でも、3年間で、今よりも自分が好きな自分になりたいと思う、そんな夢は、叶えたい。

 

 3年後の東京オリンピックは、「平凡な人生を生きて」いる自分に、どう映るのだろうか。

 

価値の価値観

美味しいものは、高い。いい服は、高い。

一概には言えないが、ある程度比例しているだろう。大切に育てられた国産の豚は外国産の豚肉よりも金額が高い。質のいい生地で作った服はそこら辺の大量生産品よりも金額が高い。当たり前だ。モノの値段はそのモノの価値によって決められるのだから。それに、例えば三ツ星レストランのシェフが作った、というだけで金額は上がるし海外の有名デザイナーが作った洋服だって、高い金額で売れる。金額は、モノ自体の価値とは別に、それを作る人間の価値までも比例している。仕方ない。質のいいものには、それなりのお金を払うべきだと私は思う。思っている。思っていた。思っていたがここ最近、価値とお金が無関係にあるモノの存在に感動してしまった。

本だ。

私は、本というのはかなり平等に価値が与えられているんじゃないかと思う。本の値段は、作者ごとにはほぼ変わらない。本の値段が1番大きく関わるのは、外見だ。サイズ感や表紙の分厚さ、中の紙の丈夫さなど、目に見える質で価値が上がるというのは他のモノと変わらない。

しかし、大ヒットし映画化した小説や芥川賞を受賞するような作品を書く作家の本と、正直あまり名の知れていない、やっと文庫化までたどり着いたような作家の本でも、金額はほとんど同じだ。文庫本になってしまえばもう、本当に値段はほぼ横並びだ。なんて有難い話なんだろうか。文化的なモノの価値を金額によって決めない。なんて綺麗な話なんだろうか。面白いか面白くないかは自分で決めていいと、名前が売れているからって質がいいわけではないと、そう言ってくれている気がしてならない。文化的なモノへの価値観は、自分のものさしで計ってしまえばいい。小説でも漫画でも、自分が好きなモノは好きでいいのだ。