標準語で恋がしたい。

 

 

私の両親は共に関西人だ。もちろん私も関西に生まれ、育ち、当然のように関西弁を話す。

関西弁が好きだ。当たり前に話してきたから何も考えずに今もスラスラ話しているが、他の土地に行ったときなどに、関西弁ユーザーであることを誇りに思う。他にないイントネーションで、親しみやすい気がするからだ。関西弁にしかない表現だってたくさんある。まあ、それはどこの方言でもそうかもしれないが。

 

そんな私が時たま思うことは、タイトルの通り。

標準語で恋をしてみたい。ということだ

 

ドラマなんかはたいてい、標準語だ。そりゃそうだ。日本の標準とされる言葉で全国ネットの番組を作るべきだと当たり前にそう思う。

ドラマの中の世界がああも別世界に感じる一因として、標準語であることを挙げたい。私の土地では使わない言葉、使わない表現、それにどことなく憧れてしまうのだ。

 

標準語で恋をする、ということはつまり、標準語使用圏内に住んでいる、ということだ。そこでたとえば、デートをしよう、となるとする。そしたら代官山とか下北沢とか、青山とか三軒茶屋とかに行ってカフェ巡りなんかをするのだろうか。行ったことのない私が名前を聞いただけでワクワクするようなそんなオシャレな街で彼と恋ができるのだろうか。なんだそのかっこいい日常は。

 

他にもたとえば、何か鈍臭いことをしてしまったとき。

「バーカ」

と笑いながら言われたりするのだろうか。ついでに言うとそのまま大きな手で頭をクシャッとされたりするのだろうか。

関西弁だとここは、「アホか」とかそういう感じになってしまう。「バカ」よりも「アホ」のほうが傷つかない、と言う言葉を聞いたことがあるが、私は別に「バカ」でも「アホ」でも傷つかない。ただのコミュニケーションだ。

だったら「バーカ」と言われたい。あ、これは「バーロ」でもいい。工藤新一風の「バーロ」でも私の心は充分満たされるだろう。

 

 

最後に、私が最も思うこと。

「好きだよ」と言われてみたい。関西人がこんなことを言ってしまったら似合わなさすぎてきっと虫酸が走る。かと言って関西人のイメージとしてありがちな「好っきゃねん」などを使う関西人はいないだろう。ここはだいたい「好き」とか、まあ「好きやで」くらいにとどまってしまうタイプが多いと思われる。

「好きやで」

が、嫌なのだ。なんか、こう関西感が溢れすぎているのだ。格好良く「好きだよ」と言われたいのだ。「好き」に続く言葉はもう、「だよ」でいいと思うのは私だけだろうか。

「好きだよ」

と、言われてキュンとくるのは普段から標準語を話している彼に限る。ついでに高身長で塩顔イケメンであればなお良しだ。

 

 

関西弁の恋も悪くない。が、標準語への憧れは止まらないばかりだ。いつの日か、一度でいいから、標準語の彼と出逢って恋をしてみたいものだ。

次の季節を

今日から涼しくなると聞いていたのだが。

 

髪の毛を下ろし、ベレー帽を被り、季節限定の巨峰味の野菜ジュースを飲んで歩いているのだが。

とても汗ばむ。

 

あんなに夏の終わりを恋しがっていた私は、一通り恋しがり終わるとすぐに秋を待っていた。もう長袖を着るつもり満々で毎日目を覚ますのに、いざ起きて天気予報を見るとまだまだ30度近い気温が予報されている。

そろそろ、秋、きてもいいんじゃないか?

 

秋が来て冬が来る前提で、日常会話をしてしまっているのだ。

もうすぐ鍋の季節だねー

なんて

朝と夜の肌寒い感じが好きだよねー

なんて

そんなことをすでに話してしまっているのだ。

 

私は夏が好きで、冬はあまり好きではない。

それはまだ、変わらない。

 

だが一応、毎年毎年

次の季節を待っているのだ。

 

日本に生まれ落ちた身としてはしっかり四季を楽しみたいのだ。

 

こんな天気のいい日はとても気分がいい。

だがもうそろそろ、涼しくなってやくれないか。

セプテンバーさん

9月。

暦の上ではすでに秋だ。まだまだ暑いのに、と思っていたが、夜にはすっかり秋風が吹いて肌寒さすら感じるくらいだ。

 

夏の終わり、とは毎年、

寂しさを覚える。

年末もそうなのだが。

 

夏は盛り上がるイベントが多い気がする。夏らしいことをこぞってしたくなるし、夏ならなんだって許される気分になってしまう。夏の曲は明るいものが多い気もする。

 

花火大会。お祭り。海。川。

そんな大きなイベントもいい。けれど

夜に外で飲むビールや、暑いと言いながらも人肌と触れ合う日や、クーラーと言う名の文明の利器への喜びや、夏しか着られないような服。

そんな小さな夏らしさは、どれほど幸せなことだろうか。

きっと、この感情は夏が終わるとだんだん薄れてしまう。

けれど、忘れてしまうからこそきっと私は毎年、夏が来るのを楽しみだと思えるのだ。そう思う。

 

全てを忘れずに積み重ねて生きていけたらきっとそれは幸せだ。楽しかったこと、その場で感じたこと、全てをそのまま覚えておけるのならば。

しかしそうはできない。どうしたって、忘れてしまう。何をしたかは覚えていても、何をどのくらい感じたか、ということは余程のことではない限り大まかにしか覚えられない。

どれほど仕方がないと言っても、少し切ない話だ。

こんなに楽しかった今年の夏のことも、思い出にしまって引き出す頃には断片的になっている。

 

そんなことを考える9月の始まり。

しかし、22回目の秋を迎えようとしている私は、秋にはまた違う幸せが待っていることを知っている。

 

それを楽しみに。明るい9月の幕開けとしよう。

夏が始まったらしい

海岸近くでもないのに、外にいるだけで体がべたついている。

何となく腕が痒いと思ったら、小さいあいつにやられた跡が丸くぷくっと膨れている。

昨日からか一昨日からか、分からないが気付いたら蝉の声が聞こえている。

 

どうやら、夏が始まったらしい。

 

私の地元の神社では、毎年小さなお祭りが開催される。小さい、と言っても都会の真ん中にある神社のために面積が狭いというだけで、クオリティとしてはそれなりに高いお祭りだと思う。

駅から家の帰り道にあたるその神社から先ほど、太鼓を練習する音が聞こえてきた。この音が毎年夏に鳴るということを私は、毎年音が聞こえてきてから思い出す。そして毎年これを聞くと夏だと感じる、ということも、毎年音が聞こえてきてから思い出す。

どんちゃんどんちゃん、いつも10日ほど前から鳴り出すこの音だけを聞いていると、ここが都会であること、神社のすぐ側に片側二車線道路が通っているということ、その近くには背の高いビルがあることを忘れてしまう。

少しうるさいが、気づけばこの音は私の大好きな音の仲間入りをしている。

 

もう私は、家から遠くの大きなお祭りに行くようになった。浴衣を着て、花火の見える、人で溢れかえったお祭り。

小さな子どもと地元の関係者ばかりのこのお祭りを私は、今年も音だけで楽しむのだろう。

私の好きなもの

週刊少年ジャンプが本屋の袋にぴったり収まるのが好きだ。

柄シャツを1番上まできちんと止めているスタイルが好きだ。

寒い日に外でホットレモンを飲んだときに喉や胸を通るのが分かる感覚が好きだ。

自分の書く「評価」という文字が好きだ。

iPhoneのイヤホン同士がぶつかったときに鳴るカチカチッとした音が好きだ。

猫の毛が好きだ。

固めのプリンが好きだ。

信頼のできる友人が好きだ。

 

好きなものは、たくさんある。

見えるか見えないか、気付くか気付かないか微妙なラインにいる好きなものはきっとこの世に山のように存在する。

それに気付くたびに私は少し微笑んでしまう。幸せの最小単位は、このラインの好きを見つけるということではないのか、と私は思う。

 

今日みつけた最小単位は、

思いがけずふかふかのソファーに出会った瞬間が好きだ。

ということだ。

 

まるで東京タワーのような

梅田のヘップの観覧車は、ある地点からだと綺麗に真横から見ることができる。

その場所にはうまいことベンチがあって、それを眺めながらたそがれることができる。観覧車を真横から見ると、縦長で薄い。そしてヘップの観覧車は、真っ赤な観覧車だ。その場所から見えるそれは、まるで東京タワーのようであるのだ。

毎日歩く通学路で、不意に顔を左に向けると私はそれを見つけた。初めて見たときは、実は泣きそうなほど感動した。夜のヘップの観覧車は黄色い明かりがいくつもいくつも点いていて、観覧車の回転に合わせてそれがうまいこと消えたり点いたりして見えるのだ。真っ正面から見た場合には絶対に起こらない現象である。真横だと骨組みや箱が邪魔をして、そう見える。真っ赤な鉄に無数の黄色い電球は、夜の梅田によく映える。私はこの光景が、大好きなのだ。

梅田の夜に、JRと阪急の乗り換えを行うときがあれば、ルクア近くでいちど顔をヘップに向けてみてほしい。私のいう東京タワーの意味がきっと分かるだろう。

幼なじみポジションは最強説

恋人が欲しい

とまあいろんなところで聞く。私も言う。しかし近ごろ思うことは、

 

幼なじみで仲の良い男友達が、欲しい。

 

ということだ。男友達は誰にだっているだろう。しかし、何でもできる、何でも言える男友達となるとかなり人数が絞られないだろうか。私の妄想によれば、幼なじみというポジションはかなり、おいしい。そういうわけで幼なじみで仲の良い男友達がいる生活を羅列してみる。

 

まず第一条件として、その幼なじみはフットワークが軽い。突然誘ってもだいたい予定は空いてるし、短時間でも無理を言うと合わせてくれる。私はただの友人だから何の気を遣うこともなく、「ご飯行こうー」などと適当に誘う。そして、ご飯はだいたいラーメンかその辺の居酒屋だ。いつでも会えるし特別でもないのでわざわざ店を予約したり、なんてことはない。ちなみにこのときは彼には恋人がいてもいい。しかし私はなんの恋愛感情も抱かないのでなにも問題ない。私はきっと彼氏の前じゃ少し食べづらいような全部のせ大盛り油そばを注文し、髪の毛をゴムでまとめて麺を口に入れてゆく。

そしてそのあとはわりとすぐに解散だ。理由はこの幼なじみは恋人と夜に電話をする習慣があるから。やっぱり恋人との時間は大切にしなくちゃいけない。私たちは「じゃあまた〜」と、軽いようで次が約束されている挨拶を交わして別れる。

 

あれ?あそこはカップルなのか?

と周りにあれこれ詮索されることもないから友人はいいものだ。昔からずっと仲のいい私たちは、彼に彼女がいても、私に彼氏がいたときでも、普通に友人関係があった。もはやその仲よさは仲間内でも公認で、怪しまれることも疎まられることもない。

 

私の恋愛相談にもできれば乗ってほしい。

私に彼氏がいたならば、その相談をしたい。最近返事が遅いだの、電話の電波が悪すぎるだの、惚気の入り混じる小さな愚痴を聞いてほしい。友人は私の話をはいはい、と受け流しながらも笑って聞いてくれる。最終的にはいつも、「でも結局幸せなんでしょ?」なんて言って彼氏への愛を再確認させる業務までこなす。

 

あとは一緒に音楽フェスに行きたい。幼なじみ数人、男女数人で野外フェスに行きたい。好きなバンドがそれぞれ違うので、始まると別行動が始まるのだが私とその幼なじみはずっと同じ音楽を聴いて育った。もう好みがぴったりなのだ。だから私と幼なじみは自然と共に行動する。わけわからないくらいにテンションをあげて、汗だくでフェスを楽しむ。飲み物が無くなりかけた頃にしれっと新しいペットボトルを渡してくる。柑橘系で炭酸が弱めのマッチが私の好みだということを幼なじみは当たり前に知っている。「あーあー、あんたが彼氏だったら最高なのになぁー」なんておどけると、なんとも言えない顔で自分の飲み物を飲むのだ。

 

そんな幼なじみから突然電話がかかってきて、次はなんの漫画を貸してって言ってくるのかなーなんて想像してたら、まさかの電話越しで泣いている幼なじみ。突然のことに驚くと、どうやら彼女と別れたらしいのだ。かなり落ち込んでいる。私がこの幼なじみを頼るのと同じように、こいつも私を頼っている。もはや家族だなと、出会ってから15年で何度も私は思うのだ。

 

最大の理想を言えば、彼氏がいない私の彼氏代わりに花火大会に一緒に行きたい。花火大会の日は一応バイトを入れなかったものの、周りの女友達は恋人持ちばかりでどうせ行く人がいないので、家でだらけていた頃。幼なじみからLINEの返信が。

「花火、みたくね?」

ああ、こいつは彼女と行く気だったから予定を空けてたんだ。調子に乗って浴衣を買うといって、3週間ほど前に浴衣選びに付き合った。悩んだ挙句、最終的にはかなり私の好みの浴衣を選んでしまったのだが。

「みたい」

一言だけ返信して私たちの予定は決まった。向こうが着てきやすいように私も浴衣を着る。浴衣姿なんて小さな頃に何度も見せているからもう幼なじみは私の浴衣に萌えるなんてことはないのが少し、虚しい。

小さな頃に何度も仲間内で一緒に行ったいちばん地元の花火大会に、2人で行くのは何気に初めてだ。私たちは手を繋ぐことなんてなくただ出店を楽しみ花火を楽しむ。ああ、何度みても、どんなシチュエーションでみても、結局花火は美しい。

 

帰り際、幼なじみが不意に立ち止まる。「ん?」と振り返ると、鼻をかいている。幼なじみが緊張しているときによくするクセだ。なにに緊張しているのかと聞こうとしたそのときに

「浴衣着てるの、可愛いわ」

と突然褒めてくる幼なじみ。どうしたどうした、何度も見てるじゃん、と茶化すと、顔を赤らめる彼はなんだかいつもよりも男に見えた。私もだんだん赤くなっていることに気付く。今年の夏は、何か始まりそうだ。

 

 

 

だめだ、途中から妄想を越えて物語を作り出してしまった。それに結局幼なじみとどうにかなりたいという下心が出てきてしまった。もう恋人でも幼なじみでもいいから心が満たされる出来事が欲しいだけなのだな、私は。